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久しぶりの日記になってしまった。
僕は、日々の出来事をメモをするという習慣はあるんだけど、ブログに日記をアップするという習慣は欠けているようだ。もう少し頑張りたいと思うこの頃。


先日、静岡の実家に帰省した。清々しい陽気に恵まれた帰省は、とても心が休まるものだった。
都会の喧騒を離れて、静かな農村を散策して悠然とした日々を過ごした。

僕の生まれた静岡県御殿場市は、富士の麓に位置する街である。富士の向かいには箱根の山々が連なり、山に囲まれた地域になる。明治時代に「富士山東表口登山道」が開かれ、富士山への登山口としても知られている街だ。
東京都心部に近いが、市街地が標高約500mの場所に位置するために空気が非常に澄みきっており、夜空の星は美しい。また、富士の雪解け水の恩恵があり、黄瀬川と鮎沢川の源を有した水は美味い。
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この地域の人々は古き時代から富士と共に生活が存在し、そして生きてきたという。
実際に、6~7千年前の縄文時代には既に人々が住みついていたようだが、この頃は、富士山が盛んに火山活動をしており、噴火があると逃げ、おさまると住み着くということを何度も繰り返していたようだ。
10世紀から11世紀ごろにかけて伊勢神宮の荘園となり、この地域を「みくりや」(大沼鮎沢御厨)と呼ぶようになった。僕も幼い頃から亡くなった曾祖父や曾祖母によって"みくりや"という言葉をよく耳にしていた。"みくりや"という地域名は、"御殿場"という地名より不思議と馴染み易さを感じる。
鎌倉時代に入ると、源頼朝による「富士の巻狩り」が行われ始めた。市内には巻狩りに因んだ多くの伝説や地名が残っているのだ。戦国時代になると、駿河今川、甲斐武田、相模北条という"強国"の境界地帯として幾多の戦いに巻き込まれた。特に武田氏と北条氏の争奪戦は盛んだったようだ。
そして1616年、沼津代官はこの地方の土豪「芹澤将監」に対し、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が使う御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じ、この御殿を中心に「御殿新町」が生まれた。家康本人が実際に御殿を使用することはなかったようだが、「御殿場」という名はこの「御殿」に由来するのだ。

しかしながら、繰り返される富士の噴火によって噴き出された降灰は、田畑を埋め、山野を覆い尽くし、この地の人々に大きな苦難を与え続けたという。
(参考:御殿場市ホームページ

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静岡を離れて思うことは、僕は富士に支えられて成長してきたということ。
気候が富士山によって左右されることもあったが、一年を通して様々な姿を見せてくれる富士は、雄大なスケールを誇っていた。朝目覚めた時や日が暮れる時は、富士を見て、その姿の見え方や様子で時刻や天候を確認した。どこへ行っても富士を見れば方角や居所が分かり、気がつかないうちに精神的な支えになっていたようだ。
東京から御殿場に帰るたびにその雄大さに感心するが、改めて強い心の支えになっていたことを実感する。
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— 微風が田園の水面(みなも)を静かに揺らしていた。
  其処には、もう一つの富士の勇姿が雙を成すように映り込んでいた。
by zeno1016trp | 2007-05-01 00:00 | 帰省日記