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大竹伸朗『全景』

先日、兼ねてから好きな作家、大竹伸朗の展覧会「大竹伸朗『全景』」に行ってきた。
滑り込みセーフの最終日とあって(笑)、会場は多くの人で混みあっていた。
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本展覧会において僕は、常に「フレーム」という言葉が頭から離れなかった。
フレームは主に"縁(ふち)"や"枠"といった意味で使われる事が多い。この意味においては、作品を全く別の顔に仕立て上げる役割を持ちながら、制約という側面も持ち合わせているように思う。
実際に、大竹さんの作品にはフレームのようなものを象った作品もあるが、どの作品においても枠としてのフレームの関連を考えているように感じられた。
また、フレームという言葉は"区分"や"骨組み"という意味も持つ。
そのために、会場には所狭しと小学校、中学校時代の作品から今現在迄の絵画作品、立体作品、エスキースやスクラップ、さらに音楽活動における作品も展示されていたが、これだけの作品の経緯や構築を、"区分"や"骨組み"という点から観る事もできるのではないのかと感じた。

また僕は、いつも作家の辿ってきた軌跡が気になってしまうために、その膨大な作品群を辿りながら自分自身と照らし合わせて観ていた。現在の自分と同じ年齢の頃には何をして、どのような仕事(表現)をしていたのか等々。作品の変遷(移り変わり)や作家の言葉なども興味深く読んだ。


そして作家ご本人もいたが、まさしく普通のおっさんだった!(失礼!?)
ご自身の作品通りの方で、そのギャップが無いところがまたよかった。自分が進むべき方向が本当にこれでいいのかと学生の頃から思い続けているが、改めてこのような作家に対しても憧憬と羨望の念を抱かざるを得なかった。大竹さんの表現に向かうパワーたるや情熱たるや、陳腐な言い方かもしれないが、表現への勇気をもらったような気がしている。

                 *

いつも思うのだが、団塊世代と団塊世代よりやや下の世代の作家にはいくつかの共通項があるように思う。その一つに「器量」という言葉が挙げられると思う。
滲み出るほどのエネルギッシュな"作家性"としての器量と、素材が表白に追従している"才"としての器量、どこか暑苦しい(笑)容貌の"外見"としての器量だ。そして、どこか臨戦態勢で、けれど大らかな印象を抱くことのできる"人間性"としての器量だろうか。
by zeno1016trp | 2006-12-28 13:14 | 展覧会鑑賞記