餅搗き

年末27日、日本画研究室の毎年恒例の「餅搗き」が行われた。

この餅搗きは昨年度に藝大を退任された画家、堀越保二先生を囲んで、助手やOB、大学院生らが中心となり行われる。今回は初めて中村さんの築100年以上も経つ日本家屋のご自宅で行われた。作業は古き時代の名残りが漂う広い土間で行われた。
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餅となるもち米は堀越先生の田圃から収穫された新米だ。
中村さんらが餅搗きのために下準備を行っていてくれたこともあり、当日の作業は合計7升の米を釜で蒸すことから始まった。蒸し上がったもち米は臼(うす)の中に入れられ、杵(きね)でつぶしこね、"返し手"と息を合わせながら搗いた。とはいっても、搗く方も返す方も大変な作業!さらに蒸し上がったばかりの餅はかなり熱い!皆で役割を交代しながらその作業は延々と行われた。

やがて搗いた餅はすぐに冷やされ、暫く経ってから包丁で切り分けられた。
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堀越先生には鴨まで振る舞われ、蕎麦の上に乗せ美味しくいただいた。座敷きで胡座をかきながら食べるお汁粉や漬け物も最高に美味だった。
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無くなりつつある文化の息遣いを肌に感じることができた、素晴らしい年の瀬だった。
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by zeno1016trp | 2006-12-31 13:00 | 日常のよしなしごと

大竹伸朗『全景』

先日、兼ねてから好きな作家、大竹伸朗の展覧会「大竹伸朗『全景』」に行ってきた。
滑り込みセーフの最終日とあって(笑)、会場は多くの人で混みあっていた。
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本展覧会において僕は、常に「フレーム」という言葉が頭から離れなかった。
フレームは主に"縁(ふち)"や"枠"といった意味で使われる事が多い。この意味においては、作品を全く別の顔に仕立て上げる役割を持ちながら、制約という側面も持ち合わせているように思う。
実際に、大竹さんの作品にはフレームのようなものを象った作品もあるが、どの作品においても枠としてのフレームの関連を考えているように感じられた。
また、フレームという言葉は"区分"や"骨組み"という意味も持つ。
そのために、会場には所狭しと小学校、中学校時代の作品から今現在迄の絵画作品、立体作品、エスキースやスクラップ、さらに音楽活動における作品も展示されていたが、これだけの作品の経緯や構築を、"区分"や"骨組み"という点から観る事もできるのではないのかと感じた。

また僕は、いつも作家の辿ってきた軌跡が気になってしまうために、その膨大な作品群を辿りながら自分自身と照らし合わせて観ていた。現在の自分と同じ年齢の頃には何をして、どのような仕事(表現)をしていたのか等々。作品の変遷(移り変わり)や作家の言葉なども興味深く読んだ。


そして作家ご本人もいたが、まさしく普通のおっさんだった!(失礼!?)
ご自身の作品通りの方で、そのギャップが無いところがまたよかった。自分が進むべき方向が本当にこれでいいのかと学生の頃から思い続けているが、改めてこのような作家に対しても憧憬と羨望の念を抱かざるを得なかった。大竹さんの表現に向かうパワーたるや情熱たるや、陳腐な言い方かもしれないが、表現への勇気をもらったような気がしている。

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いつも思うのだが、団塊世代と団塊世代よりやや下の世代の作家にはいくつかの共通項があるように思う。その一つに「器量」という言葉が挙げられると思う。
滲み出るほどのエネルギッシュな"作家性"としての器量と、素材が表白に追従している"才"としての器量、どこか暑苦しい(笑)容貌の"外見"としての器量だ。そして、どこか臨戦態勢で、けれど大らかな印象を抱くことのできる"人間性"としての器量だろうか。
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by zeno1016trp | 2006-12-28 13:14 | 展覧会鑑賞記

展示回想

今年度、最後の展示が終了しました!どうもありがとうございました。

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今回は、「絵画考」(画像の作品)と「錯綜の刻」の2点を出品した。
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「絵画考」という作品は、「(自分は)なぜ絵を描くのか」、「(自分の表現が)なぜ絵なのか」という常に尽きない自問を作品化にしたものだ。出口の見えないこの問いに対して、僕は作品化することによって、その過程の中にある自分自身と多くの素材との接触から生まれる、"より身体的な視点"からアプローチ出来るのではないかと考えたのだ。また、制作行程で用いられる時間と空間の中で思考することにも何か意義があるのではないかと考えたからだ。

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しかし今後、グループ展覧会として考えねばならない点が多くあった。
その多くはグループ展としての運営についてだろう。
決して展示をしたことは無意味であるとは考えていないが、展覧会としての開催と運営そのものの関連が希薄であり、本末転倒なものであるように思うのだ。特に、本展覧会の主旨に沿うようなものを目指すのであれば、より一層、検討を行うべきであると思う。

本展は画廊企画であり、様々な規約や制約がある。そのことを踏まえた上で、グループ展覧会としての主旨を明確にし、円滑な運営の在り方を考えていきたいと思った。
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by zeno1016trp | 2006-12-26 12:52 | 展示回想・雑感

先日、銀座スルガ台画廊に於いて開催しましたグループ展、『煌星会展』が終了しました。
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多くの方にご高覧いただきました。本当にどうもありがとうございました。

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そして作品展示のご案内です。ただ今、『 翔 Vol.2 』 (6人展)というグループ展を開催しています。こちらは東京芸大卒のメンバーで構成された小作品のグループ展です。今回で第二回となります。(画像は、僕の本展の出品作です。)
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お時間ございましたら、どうぞご高覧下さいますようご案内申し上げます。どうぞよろしくお願いいたします。

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『 翔 Vol.2 』 (6人展)
荒木亨子・金子朋樹・喜多祥泰・四宮義俊・関本麻己子・松永龍太郎
            
  会期:2006年12/18(月)~12/23(土)
      午前12:00~午後20:00(最終日は17:00まで)
  
  アートフロンティア1F/中央区新川2-7-4矢島ビル TEL 03-3555-6127
  e-mail art2frontier@yahoo.co.jp
  HP http://www.geocities.jp/artfrontier_gallery/access

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仕事を始め、やるべき事が多く本当に忙しい毎日だった。ブログ更新も滞っていた。
現在開催している展覧会『 翔 Vol.2 』も、今年に入り"8度目"となる展示!時間に追われるような制作はしたくなかったが、刻々と迫る期日に焦燥の毎日だった。
実際に、ついこの間まで夏だったかのように思うほど、9月10月11月はあっという間に感じられる。そしてもう12月、年の瀬。まさしく、光陰矢の如し。

現在は一段落つき、現在開催している展示を見守りつつ、新たな制作を開始している。
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by zeno1016trp | 2006-12-20 16:22 | 展覧会の案内

先月、大学の研修旅行「古美術研究旅行」の引率で京都と奈良を旅行した。深まる紅葉の季節。それは素晴らしい旅行だった。
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僕自身も学生の頃に行っているが、「古美術研究旅行」とは、2週間の日程の中で多くの寺院を巡り、現地において講義見学が行われるものだ。当時の記憶は断片的なものでしか無いが、学生の頃に赴いた寺院の数は30を超えるものだった。

今回、京都市内のホテルと奈良市内の大学研修施設に宿泊し、計8日間滞在した。
参加した1週間だけでも、「大徳寺真珠庵」、「大徳寺聚光院」、「大徳寺大方丈」、「禅林寺」、「智積院」、「養源院」、「妙心寺隣華院」、「角屋」、「教王護国寺」、「南禅寺大方丈」、「南禅寺天授庵」、「南禅寺金地院」、「三井寺光浄院」、「三井寺勧学院」、「薬師寺」、「唐招提寺」、「秋篠寺」、「蟹満寺」、「浄瑠璃寺」、「岩船寺」、「円成寺」、「興福寺国宝館」、「興福寺東金堂」に赴いた。

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僕は今回ほど"光と影"を意識して拝観した事が無かったように思う。
特に、6日目に行った「秋篠寺」、「蟹満寺」、「岩船寺」、「浄瑠璃寺」、「円成寺」の諸寺は深く感慨に浸った。これらの寺院は電気に頼る現代の明かりを極力避け、蝋の明かりを頼りにしていた時代の状況を再現し、本来の在り方を伝えてくれている。
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本堂の中は日中でも薄暗い。障壁などに用いられた箔などはきらびやかな演出のみならず、光源を誘う役割を果たすなどの効果があるという。

光があれば、影も存在する。僕は堂内の光が当たらない部分の中に、建立当時から信仰されてきた人々の思いがどこまでも深く深く浸透しているように感じられた。また、光が当たる事によって投影された影との関係に、"阿吽"の息遣いがあるように思われたのだ。
数々の仏像彫刻、障壁画等を眼にしたが、改めて寺院が、信仰を基に造られた"包括的な"意匠であることを認識した。


一面翠緑に覆われた苔の上に、一枚の葉がひらひらと静かに落ちる光景は言葉で言い表わす事が出来ないものがある。
室町、鎌倉、平安、さらに遡ること白鳳、天平という時代から経てきた建造物は、時代が刻々と変化してもその姿を変えず、庵を営まれ信仰に勤しまれたのだろう。凛とするような早朝の外気の中、僧侶が静かに境内を歩む姿も、いつの時代でも変わらずにある姿なのだろう。広い縁台に降り注ぐ、眠りに落ちてしまいそうな暖かな陽射しも、雨露が本堂の軒をつたい滴り落ちる音景も、いつの時代も繰り返されて来た光景だろう。

境内に繰り広げられる佇まい — 葉の落ちる光景、麗らかな陽射し、僧侶の姿は、それらを取り巻く環境が変容しても、確かに同時代に現存し続けている。



— 陽光を透かして、煌めく紅い葉を空に仰ぎながら山門をくぐると、其所には遠き過去から静かに息づく四海が広がっていた。
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by zeno1016trp | 2006-12-20 15:47 | 旅行記