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東京国立博物館(平成館)で開催されていた『プライス・コレクション「若沖と江戸絵画」展』に行ってきた。一昨日の事だ。
この日は展覧会最終日の午後だったから、所謂"滑り込み"だった!
案の定、会場は入場制限を設けていたほど混雑していた。

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展覧会では若冲の他、狩野派、応挙、芦雪、狙仙、抱一、其一などの江戸時代の画家たちの作品が粛々と並んでいた。蕭白の作品も目にすることができた。


やはり、伊藤若冲の凄みを感じる写実、躍動ある溌墨の世界にはぐいぐい引き込まれた。
若冲筆「鳥獣花木図屏風」。(正確には未だ本人の物か立証されていないようだ。)
1枚につき4万3千という升目を使って描かれた六曲一双の屏風は、江戸時代版デジタル・アートの様であったが、数百年前の江戸時代にあって時代を先読みしたかのような創造性は、なぜか寒気がするほど恐ろしく、新奇に満ちているようにさえ感じた。

ガラスケースを用いず、"光の効果"に工夫を凝らしたという展示室もあった。
作品との距離はガラスケースが存在した以上に生じていたが、何よりも不思議と作品を近くに感じることができ、更に作品の持つ年月の経過を忘れさせてくれる効果だった。

このような展示は古典作品の場合は滅多に見られ無い。一般的な作品観賞用の無機質なガラスは、その役割以上に観者に無意識の距離感を生じさせているように思う。

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帰り際、本館平常展も鑑賞して家路に向かった。

やがてJR日暮里駅から京成線に乗り換えたのだが、居眠りをしていないのにもかかわらず、居住地降車駅を乗り過ごしてしまったのだ。特急電車のため停車しない駅もあったが、居住地からかなり先の千葉県「京成船橋駅」まで行ってしまった。


しばしば、電車内で起きたまま乗り過ごしてしまうことがある。
車内では読書をしたり、また何かを取りとめなく考えていることが多い。喧騒の車内であっても物思いに耽る方だが、そういう状態になったら周囲の状況が気にならなくなってしまう。

それにしても電車内で乗り過ごす事は、運賃や時間のロスが思いのほか大きい。おまけに、ハッと気がついたら想定外の地で慌てて降車をし、罰の悪そうな顔で反対側のホームに向かわなければならない。更に、"やり切れぬ悔しさ"と"やり場の無い怒り"だけが後に残る。

こうも繰り返されると、ある意味"癖"のような面持ちだ。
— 果たしてこれは、自分にとって都合のいい解釈なのだろうか!?
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by zeno1016trp | 2006-08-29 00:41 | 展覧会鑑賞記

展示回想と雑感

「晩夏(甲子園の土)」に引き続き連続の日記。
8/8~8/20に開催したグループ展「東京藝術大学第二研究室 素描展」についてのこと。
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先日、無事展覧会を終了することができました。

暑い中、多くの方がお越しくださいました。心より御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
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展覧会の来場者数は"1万2千人"を越えた。この集客はやはり大学美術館の「ルーブル美術館展」の恩恵だ。
一生の、最初で最後の集客数かもしれないと思ってしまう。
いや、この数を本気で越えることを目指していかないと、俺の夢は単なる夢で終わってしまう。
(— 恩恵を授かっておりながらこんなことを申すのも何だが、「ルーブル美術館展」のキュレーションや運営は得てして本当にこれでよかったのだろうか。館内の展示スペース自体が狭い中での彫像が重なり合う作品の展示、そして照明について疑問に思うところがあったのだ。また連日の長蛇の列には驚かされたが、入場待ちの列の成し方、誘導等についても疑問に思うところがあった。)

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話戻って、今回の「素描展」は一般の方にはすこぶる好評を博したものだった。
作品の見えない部分で、作家はこのような階(きざはし)を踏まえていることを認識してもらえたのではないかと思う。そのような意味ではいい紹介の場であったのではないだろうか。

また、このような内容の展覧会は評価の対象とは無縁なものであり、「○○さんの作品がいい」、「△△さんの作品が良く無い」と評することは意味を為さないことだが、ご来場いただいた多くの方がこのような見識を持たれていたことを残念に思った。もちろん"好きか嫌いか"という好みもあるだろうし、ある意味では致し方ないこともわかっているのだが、どれだけの人に展覧会主旨が伝わっているのだろうか、どれだけの人に理解していただいているのだろうかということが気になっていた。


そのためこの度の展示を終えて、我々の展覧会主旨の提示にもう少し工夫できればと思ったのだ。
入口入ってすぐのキャプションボードに、主旨が明記してあった。しかし必ずしも読まれるべきものでは無い。今回の展示は第一回ということもあり実験的要素が強く、さらには出品者自身の内側にも向けた展示でもあったためにこのような状況は目を瞑るべきことなのだろうが、ご来場いただいた方々にはこのような事情は全くもって無関係なものである。
たとえ完全に払拭することを必要としていなくとも、個々が素描について述べる前に「素描とはこういうものではないか」という全体としての大きな前提を、もっと明快に伝達する余地はあったのだろうと思うのだ。これがグループ展としての一方向性にもなっていくものと考える。

個々の提示云々の前に、ワンクッション、全体としての意識とそれに対する主旨の提示方法にもう一工夫があってよかったと思う。より最善を尽くして全体の焦点を合わせていくことが大事なことだと思う。

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自己の展示方法は、作品の選択も含めて、さらに再考する必要があると思った。なぜなら、未だ展示方法の中に受動的な要素が在ると感じたためだ。
しかしながらこの展示参加によって、「描く」ということに強い信頼を見い出すことができたように思う。「素描って?」というところから出発した問いは、「描くこととは?」という問いに辿り着いた。この問いに明確な答えなんて見付かりはしないだろうが、自分の表現に対してもう一歩踏み込みこんで観照(かんしょう)できそうな気がしている。


総括して、"1万2千人"という数に踊らされずに、足下を見つめ直したい。折角「素描」というもので表現行為の足下を見つめていこうとしているのだから。
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by zeno1016trp | 2006-08-24 09:46 | 展示回想・雑感

晩夏 (甲子園の土)

《第88回全国高校野球選手権大会決勝、駒大苫小牧(南北海道)3−4早稲田実業(西東京)》

球史に残る真夏の激闘に、俺自身も大いに盛り上がった!
37年ぶり2度目の決勝再試合となった決戦は、早実が創部102年目にして初優勝を飾った。投手の斎藤は甲子園で驚異的とも言える948球を投げ込み、その"怪投"には実に驚かされた。
巷でも高校野球の話題が尽きないが、あの松坂の横浜(神奈川)以来に盛り上がった高校野球だった。

                *

高校野球でよく目にする光景と言ったら、敗戦校の選手が悔しさを噛み締めながら"甲子園の土"を持ち帰るシーン。逆転敗退が多かった今年は、この場面が特に印象深く残った。


この行為は、きっと彼等の思い出を回収するためだけの行為では無いだろう。
「土を持ち帰る」という行為によって、惜しくも敗れた彼等は敗戦という現実を受け入れることができ、記憶を閉じることができるのだろうか。テレビを見ていたら、あるコメンテーターが「湿ぼったい(行為)」と皮肉っていたが、この"儀式"にも似た行為こそが甲子園という憧れの地でもある場を「神聖な場」に高めているのだと思う。

幼い頃、甲子園球児だった叔父の、大切に保管していた"甲子園の土" を見たことを覚えている。一見何の変哲も無く思えたその土は、宝物のように扱っていた叔父の様子によって、なぜか貴いものに映ったのだ。

それは、単に「甲子園に行った」という事実を証するものだけではなく、甲子園で仲間と共にプレーをしたという確かな記憶と時間を内包する、清らかな"懐古装置"なのだろうか。


斎藤投手が使用していたハンドタオルの売れ行きが好調らしいが、感化されやすい日本人の悪い癖だ。
タオルくらいならまだしも、斎藤投手は自宅に帰ることが出来ない状況だという。彼等は未だ一高校生でもあるんだよね。

                *

今日は制作。現在は三作品の同時進行。
展示直後ということもあるのだろう。様々なことが頭を巡る。
研究室の先輩である村上隆さんの著書「芸術起業論」を読んだこと、気になっていた同世代作家のブログを見付けたこと等の様々な要素が絡んでいるのだろう。先日は友人たちとお互いの作品(制作活動も)の評価をし、さらに同意の上で問題点を言い合った。

村上隆さんの本を読した今、植物学者の宮脇昭氏の本を読み始めている。

                *

以前の日記に、電車2駅分(徒歩で30分ほど)の道程を通勤と帰路に歩く等々の運動を行っていると記した。
そして最近、さらに通勤をバスから"自転車"に変えた!
学生時代に2年間通学したコースでもあったが、片道6Kmの決して平坦な道のりばかりではないコースだ。
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利根川の横をオフロードで駆け抜ける。晩夏とはいえ、まだまだ汗が吹き出す季節だ。
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by zeno1016trp | 2006-08-24 09:33 | 日常のよしなしごと

御殿場富士

昨夜、静岡の実家から東京に戻ってきた。

滞在中は自宅の庭でバーベキューや花火をしたり、日中はドライブをしたりして家族と過ごす時間を楽しんだ。
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写生もしたが、全くパソコンに触れずに過ごすことができたことに驚いている。
高所のために実家の地域はエアコンが無い家々が多いが、夜半は実に寒いくらいで布団を被って寝たくらいだった。


台風の影響か、なかなか姿を現してくれなかった富士は、14日の夕刻にようやくその雄大な英姿を見せてくれた。
まるで"惑星"のように山稜を取り囲む雲影が、夕陽に照らされてとても美しかった。
その威容と自然が織り成す風致は、もはや言葉の領分では無いようにも思う。
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そしてそのような御殿場から望むことができる富士の英姿に、漠然とはしていたが10代の頃に「こういう"モノ"を描きたい」と思い続けていたことをふと思い出した。
富士の英姿のように誰もが足を留めるもの、誰もが頷けるもの、誰もが共感できるもの、そういうものを表現したいと願い、そして"富士そのもの"に様々な想いを馳せていたんだ。

俺にとって実家に帰省することは、きっと"原点回帰"の時間でもあるのだろう。いろいろな事を振り返ることのできる時間が多く在る。

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東京に戻ってからは日中の糞暑さに目眩がしそうだ。
アスファルトの路上が本当に疎ましい。


兎に角食って、兎に角描いて、兎に角動いて暑さなんか"ぶっとばせ"。
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by zeno1016trp | 2006-08-18 01:01 | 帰省日記

8/1のシンポジウム

しばらく日記を記してなかったので、付しておきたい過去のことを簡単に。

今月1日に聴講した『日本画から日本画へ展を糸口として「挑戦する日本絵画」』というシンポジウムのこと。

■シンポジウム /『日本画から日本画へ展を糸口として「挑戦する日本絵画」』 
■パネリスト/加藤弘子氏(東京都現代美術館学芸員)・柏木智雄氏( 横浜市民ギャラリー副館長)・北澤憲昭氏(美術評論家)・堀 浩哉氏(美術家)・ 岡村桂三郎氏(美術家) ・吉田暁子氏(美術家)
■日時/2006年8月1日(火)午後5時-午後8時 
■会場/京橋プラザ区民館 2階

シンポジウムはおよそ3時間。けれど個々の考え方を述べることに非常に多くの時間が費やされ、議論は10分ほどだったのだ。
そのために、消化不良の残るシンポジウムだった。

                *

まず気になったことは、テーマにもなっていた「日本絵画」についてが、序盤から「日本画」という言葉に置き換えられてしまっていたことだ。絵画を考察する上で"切り口としての「日本画」"という言葉の援用だろうと思っていたために、とても残念だと感じた。

時代性などの限定的な意義を持つ「日本画」という言葉の使用は、時に注意して使用しなければならないと思うし、そうあってほしいと願う。便宜上、容易に使用できる言葉ではあるが、安易に乱用するものではなく、慎重に"使い分け"を検討するべきものだと思った。

                *

二つ目に、研究者側と作家側の意見が二つに分かれていた議論について。
確かに、研究者と作家の考え方のズレは当然あると思う。けれど今回のシンポジウムもそれを感じさせる議論となっていたが、論理の起点が近いこともあるのだろうか、ある意味とても似通っているようにも思えた。

個人的には、制度、政治的な言葉としての「日本画」ではなく、西洋との複合的絵画としての「日本画」でもなく、《風土・環境・素材・見立て》などに視点を移し、「日本」画、日本絵画をもっと論じてみたいと思っている。
制作という実体験を通じて、そういったものを踏み込んで語ることができるのが作家であると思うし、作家だからこそ発することができる内容もあるのではないだろうかと思う。そしてそれこそが、作家としての唯一で最大の「生きた声」であるはずだろう。
単なる反発や抵抗から生じた言葉は、一過性のものでしかなく、実に説得力に欠けるものだと思う。それは自分自身に投げ掛けたい言葉でもある。

                *

三つ目に、先に個々の考え方を述べることに非常に多くの時間が費やされ云々、、と記したが、特に岡村先生のトークは長いものだった。笑

けれど身贔屓でも何ものでも無く、他作家の発言に比べて真実性を感じたのは自分だけだろうか?
そこには岡村先生自身の"身の丈"の言葉が在ったように思う。
さらに、「絵画を"人間の存在"と絡めていたこと」、そして「人間として描くという行為の根本的な言及」、「絵画と絵の異質性」など、反発や抵抗から生じたものでは無く、日々絵画に向き合っている人こそが突き詰めることができるだろう論及を発言されていたと感じたのだ。これらの語彙は、今後の美術界にきっと重要度を増すものだと考えている。


にも関わらず、時間を気にした主催者によりあっさり流されてしまったことに落胆を覚えた。
この論題にも限界というものがあるのだろうか。


最後に、このシンポジウムを聴講して、作家としての自覚が一層強まったと感じている。また改めて、自己の考えが作家寄りであることを実感したものだった。
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by zeno1016trp | 2006-08-12 11:44 | 展覧会鑑賞記

盛夏

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開催している展示が、今日で5日目を迎える。
今回の個人的な案内は、WEB上でしか行っていないが、有り難いことにたくさんの知り合いの方が来て下さっている。昨日は、三味線演奏家の友人、今藤君が観に来てくれた。彼は俺の展覧会を欠かさず観に来てくれてるのだ。
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先も記したが、展示は4日が経過した。
大学美術館では周知の通り「ルーブル美術館展」が開催しており、この客の流れが展示会場に流れてくるという状況だ。「ルーブルより良かったよ。」なんてことを言われた時には、たとえお世辞であっても嬉しいもんだ。
一日800人の入場者があった日もあり、昨日で2000人を越えた。これもルーブル展の恩恵ではあるが、多くの方に観ていただくことに対してとても有り難みを感じる。と同時に、展示の"焦点"を見失うことに不安を感じる部分もある。果たして、自分たちの手によって当初の目的を"回収"することができるのだろうか。それはまた後々の日記に付したい。


昨日の午前は展示会場に行き、展示運営の様子を見て来た。
研究室の学生たちは、日々交代制で受付当番を行ってくれている。時に忙しく、時に退屈で、時に蚊が多い接客だ。それでもしっかり運営をしてくれており、安心感を覚える。

午後は取手校地のアトリエへ。
帰宅時に博士課程のS君と取手市内をバイク散策して楽しんだ。市内の建築物を見て回り、道中の会話もとても弾んだ。
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                *

外気の温度は上昇し、蒸し暑い日が続く。いよいよ高校野球はベスト16に絞られる。

けれど日照りが強くなればなるほど、俺の意識は外へ向いてしまう。どうしようもなく、エアコンの効いたアトリエを抜け出したくなるのだ。
そんな日はボールとグローブとバットを持って野球だ。
先日はノックまでやった。炎天下の中、動き回っていると汗は滝のように流れてくる。
けれど不思議なことに、思いっきり汗をかいた後は気持ちよく制作が出来る。

4月から続けていることがもう一つ。
電車2駅分(徒歩で30分ほど)の道程を、通勤と帰路に歩いていることだ。
軽いウォーキングのつもりだが、往復で1時間弱。この時期の汗の量は半端なものではない。


今日からしばらく実家に帰る。そして9月は念願のスペインに旅行(8日間)だ。
もちろんスケッチブックは離さない。


   引き続き、展覧会をご高覧のほどよろしくお願いいたします。金子
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by zeno1016trp | 2006-08-12 11:36 | 展示回想・雑感

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展示のご案内です。

8月8日から20日まで、東京藝術大学日本画第二研究室主催、企画「素描展」というグループ展を開催いたします。この研究室の大学院修士、博士、教官の21人がそれぞれの考える素描を提示します。
 
暑い時期ですが、ルーブル美術館展と"同時期"開催です。
お時間ございましたら、どうぞご高覧下さい。


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『素描展』 東京藝術大学日本画第二研究室
            
  会期:2006年8月8日(火)-8月20日(日)
      会期中無休 午前9時~午後5時(最終日は12:00まで) ※観覧料 無料
  会場:東京藝術大学大学美術館 陳列館2F
  主催:東京藝術大学日本画第二研究室
  公式ホームページ http://www.geidai.ac.jp/labs/2ken/
  東京藝術大学大学美術館公式ホームページ 
  http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/current_exhibitions_ja.htm
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個人的に「素描」といわれる言葉は、「dessin/デッサン」「sketch/スケッチ」「croquis/クロッキー」「drawing/ドローイング」などという少しずつニュアンスが変わるこれらの言葉を同義に総称し、総体的な意味を表す役割のみを担っていると考えている。付け加え、「tableau」との関係が曖昧な「素描」は、作者の意思によってはれっきとした作品として成立するものであり、その定義は確実に個人の判断に委ねられるものだと考えてもいる。

自分自身の「素描」は「tableau」以上に自己の内部の“映し鏡”になっているのではないのかと感じることがある。「素描」の制作過程の中には、「(自分にとっての)創作表現の真実性とは何か」と自問を繰り返す時間を有することもある。これらは決して直接「tableau」に反映するものばかりではないが、創作表現に何らかの作用があるのではないかと考えている。自己の創作表現に間接的なきっかけを及するもの、それが自身の「素描」ではないかと考えている。

4月から助手としてこの研究室に迎えてもらい、本展覧会の開催のために着々と準備運営を行ってきた。タブローではないが、研究室として初めて外に向けて発信を試みた展覧会。

今回の展示準備を通して、実に「素描」というものについて深く考えるきっかけを与えられたような気がしているこの頃。

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この頃と言えば、最近なんだか涼しすぎて、夏を通り越してまるで"秋"になってしまったかのようだ。
夜はむしろ寒いくらいだ。



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[金子・作家コメント]
■「極めて個人的で《内向的な》表白」
 
 私のひたすら増幅しながら繰り広げられる自己充足は、外部に向かう意思を全くと言っていいほど持ち合わせていない。此処に生じるものは、極めて個人的で《内向的な》“ゑひ(酔)”と“喜悦”だ。しかし此の表白の中において、突として何かしらの自問を繰り返す時間を有することもある。
 さらに私は、此の表白の保有性において必要以上に潔癖であることも自覚する。いや、必要以上に潔癖である必要性があるのだ。

 願わくば、網膜に感受された全ての光の現象をわし掴みにして、自己の内部に引き込みたい。願わくば、あらゆる他念を一時的に、盲目的に遮断して、身体の突端まで神経細胞を覚醒させ、私のインディケーターの尖針を振り切りたい。
 
 私にとっていかに描くかということはそう大した問題ではない。重要なことは、いかに“掴み取る”かだ。
 筆致を置き去りにしてしまうほどの対象の追従を自己に求めよ。そして全ての表白を私の中に閉じ込めてしまうのだ。
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by zeno1016trp | 2006-08-01 09:13 | 展覧会の案内